統治体の兄弟たち

ジェフリー・W・ジャクソン兄弟

<朝の崇拝> 5 主題:「他の人が自分より上であると考えなさい」

フィリピ2:3 「…むしろ、他の人が自分より上であると考えてへりくだった思いを持ちなさい」

ジェフリー・W・ジャクソン兄弟

この聖句は“自分より上の人を上であると考えなさい”とは述べていない。すべての人を自分より優れていると見るようにと勧めている。これは簡単ではないかも知れない。テモテ第二3章にあるように、人々は自分を愛する者となり、利己的で自分中心となりがちだから。それでこの傾向に抵抗しなければならない。「他の人を自分より上であると考える」のにどんなことが役立つか。聖書の記述を調べて、その中に示されている様々な模範を黙想するなら、この点に関してエホバが教えておられることを理解できる。ダビデについて考える。

 王になる前のダビデは、サウル王に非常に敬意を込めて接したという事実に、きっと驚嘆される事だろう。サウルがダビデに何をしようとしたかを考えると、ダビデがそのような自制心を示したのは全くの驚きと言える。ダビデが自制心を示せたのはなぜか。「塔」は“ダビデがエホバを恐れ、敬い、エホバがサウルを任命されたことに敬意を持っていた”と注解されていた。サウルのことを親しい友と見ていたわけではないが、それでも取り決めに敬意を持っていた。そうした事態に介入することは、自分のすべきことではないと思った。この点から教訓を得られる。取り決めに敬意を払い、時には変化が生じるまで、エホバを待つ必要がある。

サムエル第一26:9ダビデはアビシャイに言った。「危害を加えてはいけません。エホバが選んだ*人jに手を出しながら無罪でいられる人などいるでしょうかk」。

ダビデの思いがどのように反映されているか。これはダビデがサウルは素晴らしい人物なので、敬意を払わなければならないという見方を持っていたということか。

26:10,11ダビデは続けて言った。「エホバは生きています。彼はエホバに必ず打たれますl。あるいは,生涯の終わりが来てm死ぬか,戦いで命を落とすかしますn。 11  エホバが選んだ*人に私が手を出すなど,エホバの観点からして考えられないことですo! さあ,彼の頭のそばにあるやりと水差しを取ってきてください。それから立ち去りましょう」

エホバに対する敬意のこもった態度を持っていた。この態度は他の人に敬意を持ち、自分より上であると見る点でカギとなる。ある人の行動や特質が気に入らないことがあるかも知れない。しかし、エホバの設けた取り決めがあるならエホバへの敬意い故にエホバを待つことはふさわしい。実際、私たちの周りには、槍を投げつけたり、殺そうとして荒野を追いかけてくるような人はいない。ダビデは優れた模範と言える。さらに黙想すると、ダビデがこのような敬意を示せたのは驚くべきことに感じる。そうすることが難しかった幾つかの理由を考える。

 サウル王はエホバに油そそがれていたが、ダビデも油そそがれていた。サウルは油そそがれているが私もそうだ。そのように考えることもできたはず。

教訓:あの兄弟は長老だが私も長老だ。べテル奉仕者だ、旅行する監督だ、と考えることがあるかも。そのような考え方は他の人が自分より上であるという見方をむしばむ。

 ダビデはサウルを助ける立場にあったサムエル第一16:23。サウルはストレスから解放された。ダビデは、サウルは私のところに来て、助けを受けるのだと考えることもできた。

教訓:あの人が気落ちしている時に、私は霊的に援助した。だから私の方が勝っている、という考え方をしないように。それは正しい見方とは正反対のもの。

 ダビデは素晴らしい事柄を成し遂げていた。ゴリアテを殺したのはサウルではなくダビデだった。ハンサムなサウルは戦うどころか、自分の鎧をダビデに着せようとした。それは幾分敬意を失わせるものだった。しかし、ダビデのサウルに対する見方は影響を受けなかった。

教訓:ほら、私はこれをやった、あれを成し遂げた、と考えることが決してないように注意。その考え方は他の人への敬意を弱める。

 ダビデはたくさんの支持者がいた。ある時、ダビデと共にいた人が「サウルを殺して下さい。エホバがサウルをあなたの手にお与えになったのです」。しかしダビデは任命された立場にいるサウルに対する見方が、皆の影響を受け無いようにした。

教訓:兄弟姉妹からこう言われることがあるかも知れない。兄弟の話は素晴らしかったです。兄弟の話が好きです。兄弟はすごい兄弟だと思っています。もしそれを本気にしたり、心に留めたりするなら、私たちの他の人に対する見方は影響を受けないだろうか。

ダビデはある種の考え方の影響を受けないようにしていた。わたしはサウルと同じ立場にいる、わたしはサウルを助けた、わたしの成し遂げたことを見るがいい。皆がわたしのことを素晴らしいというのだから、わたしはきっと素晴らしいのだ、などとは言わなかった。この模範に倣う時、わたしたちは他の人を自分より上に見ていることになる。

 ダビデはサウルと接する時には自制心を示したが、ナバルの時はどうだったか。同じ自制心を示さなかった。おそらく許す気持ちは全くなかった。またエホバに油そそがれた年長のサウルはいずれにしろ自分よりすぐれているが、ナバルは自分より劣っていると考えたかも。

教訓:会衆の年長の兄弟姉妹を敬うことは別に難しくないかも知れない。しかし自分と同じような人と接する場合はどうか。年下の人や自分より奉仕年数の短い人はどうか。それでも自分より上であるという見方をするだろうか。本当に霊的な人かどうかはそこではかられる。自分より上であると見ている人にどう接するかではなく、そうでない人、もしかしたら自分の監督下にある人にどう接するかが問題。それで他の人との関係を分析する点で、ダビデの例を思い出すことは良いことと言える。

単に自分より上の人を上であると考えるのではなく、いつでもすべての人に尊厳と敬意を表し、自分より上であるとの見方を持つように。

  • 参考になるビデオ

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<朝の崇拝> 176 主題:「困窮した兄弟姉妹を助ける

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皆さんに1つお尋ねします。統治体や組織内で教え導く兄弟たちはお金のことはあまり考えず、崇拝に関することだけに専念した方がいい と思いますか?

「その通りだと思います」と答える人もいることでしょう。

そう思っているならお金のことが集会やJW Broadcasting®で取り上げられることに、少し抵抗を感じているかもしれません。そして 根拠として使徒 6章の例を挙げるかもしれません。

そこには、ペンテコステの後、毎日食物の配給が行われていたということが書かれています。その記録によると、使徒たちは食物を食卓に配る仕事を7人の兄弟たちに委ねることにしました。そして使徒たちは 祈ることなど崇拝に関係した事柄に専念することにしました。

では 教え導く兄弟たちは崇拝に関することだけに専念すべきなのでしょうか?

実際この記録を見ると使徒たちがこの取り決めに深く関わっていたことが分かります。使徒たちはこの取り決めを設け食物がきちんと配られるようにしました。ただ 自分で食卓に行って配ることはしませんでした。

聖書を読むと 統治体には崇拝に関係した責任信仰を強める責任だけではなく、「救援奉仕」のように兄弟姉妹を実際に助ける責任があることもはっきり分かります。そういう面にも注意を向けなければなりません。ご一緒に使徒パウロの例を考えましょう。

聖書を開いてガラテア 2章の記録を見てみましょう。ここには西暦49年ごろの出来事が書かれています。パウロとバルナバはエルサレムにいます。2人はここにいた時 統治体から異国の人々の所へ行くよう割り当てられました。

ガラテア 2:9, 10を見てみましょう。

「また彼らは 私に示された惜しみない親切についても知りました。それで 柱と見なされていたヤコブとケファとヨハネが私とバルナバと握手を交わし、こうして私たちは異国の人々の所へ彼らは割礼を受けた人たちの所へ行くことになりました」

2人はこのような割り当てを受けました。10節にはこうあります。

「私たちが言われたのは貧しい人たちのことを忘れないようにということだけでした。私[つまりパウロ]はそのことに真剣に取り組んできました」

ここからはっきり分かる通りパウロはお金が関係したこの救援奉仕に深い関心がありました。心を向けていたのです。聖書の記録を見るとパウロが統治体から与えられたこの指示によく従っていたことが分かります。

西暦52年から56年の第3回宣教旅行中のことを考えましょう。パウロは兄弟たちからの寄付を集めユダヤの兄弟たちの所へ持っていきました。そのころ ユダヤの兄弟たちは非常に困窮し大変な思いをしていました。パウロがコリント第一 16章で述べていることに注目しましょう。コリント第一 16:1-4です。

「さて 聖なる人たちのための募金については私がガラテアの諸会衆に与えた指示に従ってください。

毎週の初めの日に、各自が資力に応じて幾らかを取り分けておくべきです。私が到着してから募金することにならないようにしてください。私がそちらに着いたら、皆さんからの手紙の中で推薦されていた人たちに頼んで、皆さんの親切な贈り物をエルサレムに届けてもらいます」

そしてパウロが4節で述べていることに注目してください。

「私もエルサレムに行った方がよければ、同行します」

パウロは第3回宣教旅行中人々を助け、良い知らせを伝えるという重要な仕事を行っていましたが、寄付を集めてエルサレムの兄弟たちを助けることにも心を向けていました。4節によると パウロはどんなことを言っているでしょうか?

宣教活動をいったん中断してエルサレムに行ってもよいとさえ述べています。

パウロはどうしたでしょうか?ローマ 15章を見てみましょう。ローマ 15章です。

パウロはどうしましたか? 実際にエルサレムに行くのでしょうか?

ローマ 15:25, 26にはこうあります。

「ですが今は 聖なる人たちに奉仕するためエルサレムに行くところです」

出版物の説明によると、

パウロがエルサレムに行った主な目的はユダヤの兄弟たちにお金を届けることでした。

26節「マケドニアとアカイアの兄弟たちがエルサレムにいる⋯⋯貧しい人に寄付するため

自分たちの物を喜んで差し出しているからです」

ではパウロにとってお金に関係したこと 寄付を届けることは大切でしたか?

はい。

実際 宣教活動をいったん中断してエルサレムに戻るほど大切なことだと考えました。

関係する聖句によるとパウロはほかの8人の兄弟たちと一緒に旅をして、おそらくかなりの金額だったと思われる寄付をエルサレムに届けたようです。

出版物の説明によるとそのようにしたのは安全を確保するためだけではなく、パウロがお金をきちんと届けたことについて疑問視されないようにするためでした。この仕事には テトスをはじめ、ヨーロッパやアジアの各地にいた信頼できるよく知られた兄弟たちが協力しました。

では兄弟たちはこうした寄付を慈善事業のようにただ人々に配ったのでしょうか?

聖書が何と述べているかを見てみましょう

コリント第二 8章です。コリント第二 8:13-15です。

この聖句には 統治体が兄弟姉妹を援助する際の原則基本的な考え方が記されています。

コリント第二 8:13-15

「ほかの人たちには楽をさせ 皆さんには大変な思いをさせる」というつもりはありません。均等を図ることが目的です。皆さんが現在多めに持っている分が彼らの足りない分を埋め合わせ、彼らが多めに持っている分が皆さんの足りない分を埋め合わせると均等になります。『多く持っている人は多過ぎることがなく、少ししか持っていない人も少な過ぎることがなかった』と書かれている通りです」

どんな原則ですか?

寄付は確かに貧しい兄弟姉妹のために使われましたが、全ての人が自分にできることをしなければなりませんでした。

貧しい人にただお金を配ったわけではありません。貧しくても多く持っていても全ての人は置かれた状況の中でできることを行うことが期待されていました。統治体もこのような見方をしています。

聖書や聖書文書は世界中の兄弟姉妹に無料で提供されています。費用が請求されることはありません。兄弟姉妹は自分の資力に応じて寄付します。兄弟姉妹の資力が限られている国々でも世界中の仲間の寄付によって王国会館が建てられています。それでも統治体は 資力が限られた兄弟姉妹も建設のために少額の寄付ができるようにしています。

なぜでしょうか?

一般の教会の人たちは「貧しい人には、ただお金をあげればいい」と言うかもしれません。

でもイエスは やもめが2枚の硬貨を寄付するのを止めませんでした。「あなたは寄付しなくていいから貧しいから取っておきなさい。裕福な人がすればいい」とは言いませんでした。

イエスがやもめを止めなかったのはなぜですか?

やもめが エホバに捧げたいと思っていたからです。エホバも喜びました。そしてご存じのように エホバの組織はさまざまな活動を行っています。聖書や文書を印刷したり王国会館を建てたりするだけではなく各地で大規模な救援活動も行っています。

私たちは 統治体が聖書に基づく見方を持っていること、また統治体の出版委員会が限られた資金を賢く使っていることを本当に感謝しています。

出版委員会はお金をふさわしく管理しているので、統治体が何かを行う決定をする時「お金がありません」とは言いません。限られた資金を重要な活動のために使えるようにしています。人々の信仰を強めたり必要な支援をしたりするためです。

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